三重小学校の二宮金次郎像は慰霊碑です
長崎市三重地区にある三重小学校敷地の北端の片隅にひっそりと二宮金次郎像があるのをご存じだろうか?石塔台座の上に銅製の、薪シバを背負っている、読書に勤しむ少年像である。
それは、1945(昭和20)年5月のまだ太平洋戦争時のさなか、あらゆる物資調達が困難な中、近海丸遭難事件(*)で亡くなった三重国民学校の児童たち15名の冥福を祈るため、遺族らの手によって慰霊碑として、この銅像は一周忌を待たず、いや初盆を待たず建立された。
ありとあらゆる金物は、家庭の鍋カマ問わず、寺の梵鐘まで供出させられた切羽詰まった当時を思うと、図らずも時世に逆らうかのように、携わった人々と遺族の哀悼はそれほど深く、渾身の財と意志を持って、成し遂げられたのではないだろうか?と、さえ思う。
建立されてから77年経つが管理が行き届いているのだろう、しっかり綺麗な二宮金次郎像である。合掌...
*近海丸遭難事件とは、終戦前年の1944(昭和19)年12月24日、長崎港外の福田沖にて、長崎港の大波止に向かっていた木造船・近海丸(26トン)が大波によって傾き、転覆、沈没し、273名の尊い犠牲者を出してしまった。
2022.6.19記
追記:2022.6.22
写真を詳細に見ていて得心に近いものがある。像の後ろ姿の足元の台座に、「岡山県伊部窯」と印がある。また、像は備前焼特有の色・光沢がある。腰部で胴体が二つに分かれるようだ。明らかに焼成後合体させたような処理痕が経年劣化で欠損、脱色?したかのように見える。つまり、銅で作られた銅像ではなく、備前の土で焼成された、伊部(いんべ)の備前焼きの作品ではなかろうか?時代背景を考える時、銅製では原料調達で不可能だったのではないか?陶器でも、耐久性の面で、より高温度焼成で知られる備前焼きでの製作が、取り得る最良の選択だったのではないだろうか。以上は私の私見である。
追記:2022.6.24
三重小学校の二宮金次郎像は銅製ではなく、備前焼陶像である。左手に持つ書物や右足の甲に欠損部分があり、 腰部の合体部も修復が望まれる部位が見られる。
ちなみに、山口県下関には銅像であったために供出された高杉晋作像が、戦後の昭和31年に備前焼の陶像で再興されている。
追記:2022.7.4
愛媛県西予市宇和町(せいよし うわちょう)の宇和民具館に、町内の小学校に寄贈され、銅像で無く、焼き物であったため供出を免れた、戦前の備前・伊部焼の二宮金次郎像が残っていて、展示されているようだ。
宇和民具館を紹介したサイトで掲載されていた正面からの写真を見る限り、三重小学校の二宮金次郎像と比べて、顔立ちに若干の違いはあるものの、他は姿、形はそっくりの意匠性からみて、この二体の作品は製作場所が同じではないだろうかと考える。