大浦川がドブ川だった頃
60年程前は、大浦川はドブ川だった。石橋から大浦川の川口にあたる松ヶ枝にかけての、電車通りの川岸沿いには、ドブ臭が漂うドブの中に、小さくは無い木造船の骨格のみが残った数隻の残骸が放置され、あたかも木造船の墓場状態だった。
しかし、更にさかのぼると、幕末から明治時代の長崎大浦には大浦川を中心に、川で洗濯をする場所の認可を受けた、たくさんの洗濯屋があって、ロシア、イギリス、アメリカ等の外国人相手に大いに繁盛していたそうです。当時の大浦川は米をとぐ事も出来るほど澄んでいたそうです。
今日では、路線バスが行き来する大浦石橋通りの、大浦石橋から椎の木川バス停付近までの上流に掛けての、全ての大浦川は全面暗渠となっている。川幅の半分が暗渠だった頃の大浦川を知らないと、頻繁に車が交差する道路からは、想像するのは難しいかも知れない。
私が小学5年の時、連れだって男の子3人で、大浦川上町(かわかみちょう)バス停付近から川に入り、大浦石橋の直前で、川を這い上がったことがあります。
怖さ半分の好奇心少々、嫌々少々の、連れに引きつれられての事だろうか。深いところでは腰のところまで水が来ていた。冒険の途中、バシャ!と音がしたので、振り返ると、暗渠を支える支柱の礎に水面から這い上がろうとする、大きな青大将(蛇)だった。
当時は大浦川の川幅の半分が暗渠となっているところが3箇所ありました。暗渠の上が、路線バスや車が通る道路となっていました。川幅の半分が暗渠になった所は、石組みの欄干手摺が川の開口部に沿って、造られていました。大浦石橋から大浦川上町バス停付近にかけては川沿いに昔からの通路があり、人々や自転車が行き交う生活道でした。所々には大木があり、暑い日は影を作り、陽射しを和らげていました。
近くには小さな店が数多く並ぶ、大浦市場があり、多くの買い物客で活況を呈していました。道路沿いには魚、野菜果物、今川焼き、パン製造、アイス菓子製造、和菓子、文房具、石炭木材の燃料、床屋、タバコ、駄菓子、焼きせんぺい製造販売、餅屋、米醤油酒類、惣さい店等の多くの商店が並んでいました。
竹籠製作店の広い板張り床の作業場で、ご主人のこなれた動作と竹を操る時に発する音も心地よくて、飽きもせず、店先から眺めていました。
洗い張りの和服洗濯店が、(*)伸子(しんし)張りを干すため、川の欄干沿いに突き出して長い布をはためかせていました。
家庭には冷蔵庫が無い時代のこと、毎日食べ物は買い出しが必要でした。その時間帯は朝夕に人々の雑踏がありました。
この界隈で現在、建物が残り、商いを続けているのは、明治の初め頃から続く老舗で、黒漆喰の外壁が特徴の青田クリーニング商会だけのようです。小学5、6年で同じクラスだった店主とは、40年近くお会いしてないがご健勝だろうか?
一人(ぼっち)語りの昔話は尽きない...
(*)伸子 (しんし)は、 布 ・ 反物 を 洗張 (洗い張り)あるいは 染織 する際に、布幅を一定に保つ 道具 で、形状は、両端を尖らせた、あるいは 針 を植えた細い竹棒です 。by ウィキペディア
2022.7.21記