大浦国際墓地(おおうらこくさいぼち)を訪ねて
2022.5.27 大浦国際墓地(おおうらこくさいぼち)を訪ねた。約60年ぶりかと思う。ここは年少時の遊び場だった。私らは外人墓地と呼んでいた。他の親御さんから、墓場で遊ぶと怪我したときに治りが悪いから、墓で遊ぶな!と言われていたが、意に介さずガキ同士連れだっての、ご近所の遊び場だった。ここからすぐ下手の一角が私が育った、その当時は木造平屋の長屋が立ち並ぶ界隈だった。
あまりの変わり様に時の流れと無情を感じずにはいられなかった。石塔崩壊や石棺の上蓋の朽ち様たるや、目を覆わんばかり。修復の跡が見られるが、時すでに遅しの状態か?区画の囲いを石の柵で造作されていたが、朽ちて危険な有様だったから取り払われたのか、殆どが撤去され、中にはそこに石棺は無かったかのように整地され、墓石の痕跡さえ無かった。私が見ていた管理が行き届いた、裕福な外人墓地、然としたようなものは、もう感じることはできなかった。
2022.5.27記
〈資料〉ウィキペディアより
長崎には長崎港西岸の稲佐に外国人墓地が存在していたが、同所は長崎港東岸の外国人居留地から遠く不便であったため、イギリス領事を代表として居留地近隣に新たな外国人墓地の開設を当時の幕府に求めた結果、1861年2月、外国人居留地からほど近い大浦国際墓地が開設された。長崎を訪れる外国人が増加すると共に大浦国際墓地の埋葬数も増加し、敷地の拡張が行われるも1880年代後半には満杯状態となった。1888年(明治21年)4月の坂本国際墓地開設と共に,大浦国際墓地は同年7月1日を持って閉鎖された。